2024年2月27日 12:04

遠征とパルチザン——「平成の精神」に抗する文芸のために

福田和也氏の著作『保田與重郎と昭和の御代』の第一章は、「平成の精神」と題されている。当時『ねじまき鳥クロニクル』第1部と第2部を発表し、ノモンハン事件当時の凄絶な皮剥ぎリンチの場面で話題を呼んでいた、村上春樹氏への言及からはじまる。
 ノモンハンを旅行中、真夜中突如として訪れた「激しい地震」に村上氏は「深く理不尽な恐怖を味わ」い、「それほど暗い闇を見たのも初めてだった」と回想する。そこに福田氏は、人間を訳もわからぬまま戦争へ駆りたてる「何か」の影を見るのである。「何か」の正体は見当もつかない、人間には把握できぬものであるが、保田與重郎の『蒙疆』や彼が言及した「石塚曹長」の「御伽話めいた」武勇伝、『ノロ高地』などには確かに「何か」の片鱗が垣間見える。これらに表れているのは、戦争の凄惨を味わいながらも陶酔を見いだし、自らの宿命を爽やかに生きる精神であった。
 昭和十三年五月、保田與重郎は、佐藤春夫、竹田龍児らとともに、朝鮮を経て北京、モンゴルへと至る旅を出発する。八ヶ月前には盧溝橋事件に端を発する支那事変が始まり、一月に近衛首相は「国民政府ヲ相手トセズ」との声明を出していた。旅行中の保田は日本軍の果てしない遠征を思い、帰国後、紀行文集『蒙疆』を著した。ロマン的な、あまりにロマン的な旅程であった。どういうわけかノモンハンにひきつけられ、小説に書かざるを得なくなった村上春樹氏の旅行を、そして文業を、福田和也氏は保田與重郎の旅路と重ねているのである。それらの道行きには確かに、「何か」の不穏な影がさしている。
 保田は初期の評論である「文學の曖昧さ」において次のように述べた。

今日僕らのもつ文學は非常に曖昧なものを含んでゐるのである。そのゆゑはたとへば僕らは明確な國文學傳統の一つさへもつてゐない。僕らの大部の靑年のアルバムにあるものは、日本文學の圖ではなく、むしろかなしい西洋の圖であらう。(中略)藝術する人閒の態度といふものは、卽ち藝術に對する關係は自然的であるか又は人工的である。それが近󠄁來の自覺の後は槪して人工的であらねばならなかつた。今日の態度に僕は瞭然として後者をみる。(中略)僕らの時代はイロニーの時代であり、あらゆる偉大なもの光榮のものが己の故鄕としてのイロニーを考へざるを得ない日である。その想起を强ひられてゐる日である。さうして僕らはここでも發露として自然的なものを憧憬しつつ、じつに態度としての人工的なものしかとり得ない。

 これらの箇所から滲み出ているのは、ハイデガーが「故郷喪失」の名で論じたものの明晰な自覚である。このような保田の芸術に対する、アイロニカルに人工的な態度は、正岡子規以降の写実主義への彼の批判と響き合う。「モダニストとして「現実」そのものを一貫して批判し続けたのであって、「現実」についての見方、認識の方法を変えたり、あるいは古い「現実」を捨てて新しい「現実」に追随したのではない」(『日本の家郷』)という福田和也氏の保田評は正鵠を得ている。共産主義者からすれば当時のソ連は「故郷」だったかも知れぬが、保田は終生、そのような実在する理想郷としての「故郷」と縁のない人であった。その「故郷」を回復する鍵を、保田は大陸に見たのである。
 「日本の橋」のうねるような美文とともに文壇に登場した保田與重郎は、征服と「人工の勝利」であるヨーロッパの橋と、「自然の延長」としてのあわれな日本の橋を比較するかたわら、「あの古いアジアの遠征」に言及していた。平家物語論でもある「木曽冠者」では、衰退の相を見せていた朝廷に代わり歴史に新鮮な息吹をもたらした、木曽義仲をたたえた。日の本は元寇を退けたけれども、川の流れを思わせる武士の無常迅速を前に、王朝文化は終わりを告げたのだ。なお、承久の乱を起こした後鳥羽院はこの「偉大な敗北」の体現者である。このような武士とモンゴルをめぐる思索の延長線上に『蒙疆』はある。『近󠄁代の終焉』所収の「國語の普及運動について」では、次のように回想されている。

私は事變の勃發と共に直觀したことは、日本の現代文化上の人道主義氣質と自然主義氣質の廢止といふことであつた。私はこのことを事變の始まつたころに改めてよんだ平家物語から感じ、そのことについては既にその七月に誌し、爾來しば〳〵文章の中でのべたのである。

 保田與重郎は「ある一つの文明の生れた原始の渾沌状態」(「神道と文學」)を支那事変に見た。ロマノ・ヴルピッタ氏は保田與重郎の文業とミルチャ・エリアーデの永遠回帰の思想を比較し論じているが、僕はこの頃の保田を、よりエリアーデに近しいものと考える。
 福田和也氏の指摘するように、保田は石原莞爾と同様、十九世紀風の「帝国国家による世界分割の時代が終わった事」を踏まえていた。時代は二十世紀の「新しい世界秩序の論理」を求めていた。このような視座において保田與重郎はハイデガーと同様、ポストモダンの先蹤と見なすことができる。石原は世界最終戦争へと至る壮大な構想を練り上げたが、保田はあくまで戦争を情緒的に、浪漫的に煽動した。福田氏はハイデガーの『ヘルダーリンの讚歌「イスター」』を補助線に、保田にとっての「戦争」を、日本の「本来性」つまり「故郷」にたどり着くための「もっとも仮借のない直面であり、対話」であったとする。この「対話」の相手は「遥かなるもの」——人々の心を戦闘へと突き動かした「何か」に限りなく近いものであろう——であったという。僕はこの主張に賛同する。ドイツ・ロマン派的に、真の日本を明らめるための絶え間ない批評として、保田の「戦争」を考えることはできない。ロマン派の哲学を説いたフィヒテの「自我には非我が定立される」という命題は、たしかに日本軍の旅程を思わせるものがある。しかしドイツ・ロマン派が普遍かつ絶対的な自己を追い求めたのに対して、「戦争」の結果見つけられた、イロニーとしての日本はやはり、「初國小さく作らせり」と謳われた、あまりに特殊かつ小さな国土であった。戦後保田は敗戦の痛みを受けとめながらも思想を円熟させ、彼の仕事の集大成ともいえる『日本の文學史』を著すことになる。
 昭和二十年三月、肺湿潤に蝕まれていた保田のもとに召集の命が届き、大阪の連隊に合流する。やがて保田は大陸に渡り、軍病院に入院、生死の境を彷徨った末に、その場所で玉音放送を聴くことになる。福田和也氏は、保田がこのとき向日葵の影に「形容しがたい怖ろしさ」を感じ、「かつて思ひもよらなかつた無限に深い闇を」見たという「石門の軍病院にて」の文章を引き、次のように述べている。

 おそらく、その闇は、包頭の「荒涼からさらに荒涼へと」入っていく平原において、保田與重郎が出会った空虚、空白と対になるものである。あるいはまた、村上春樹氏がチョイバルサンのホテルで、出会った何物かとも、関係がある。
 「闇」は、保田與重郎の神や精神の反対物ではない。それは極めて近いもの、でありながら決定的に別の何かなのだ。

 果たしてこれを執筆していた時の福田氏は、どこまで春樹作品を読めていたのだろうか。僕は基本的に、文芸批評を作品読解の補助線とすることに反対である。例えば江藤淳の夏目漱石論は、鋭い視点を有するけれども、漱石の作品の読解としては失敗であろう。晩年に『南洲残影』を著した彼は、西郷隆盛に注目するのが遅すぎた。『こころ』が乃木大将の殉死に対する批評である以上、その背後にいる西郷の存在への気づきなしに、テクストの読解は不可能である。インターネット上で「構成読み解き」なる活動を発信しているfufufufujitani氏によると、『こころ』は西南戦争とその後を描いた作品である。先生が植木屋で指摘するつつじの名前は霧島であり、その燃えるような赤は血潮の暗喩である。Kが自殺し、暗い部屋の襖に迸った血潮である。挨拶をして入ってこなかった先生を注意する、犬を連れた礼儀正しい男の子は、もちろん西郷を表している。敬天愛人を座右の銘とし、「精進」を重ねながら人の歩むべき道を追究した、西郷を仄めかすのに適切な表現である。ヒロインの静をめぐる先生とKの対立はいわば西南戦争であり、その結末の悲惨に恐怖し悔やみ続ける先生は乃木大将同様、自ら死を選ぶ。男の子とKが西郷ならば、植木屋の娘と静は、西南戦争の後に乃木大将と結婚する妻の静子にあたる。西郷は欲望のために戦ったのではなく、背景には深淵な哲学があったのだ。
 文芸批評はあくまで作品を通した、批評家による人生や現実との格闘であり、読者は虚心に作品のテクストと一対一で向き合うべきだと考える。その一方で僕は、保田與重郎の見た「闇」に注目し村上氏と関係づける福田和也氏の手腕に、鋭い文学的直観と、批評を単なる学術論文ではなく作品として成立させようとする強い意志を感じるのである。「何か」に取り憑かれ、戦後その代償に打ちのめされる保田與重郎の姿は、村上氏の『羊をめぐる冒険』に登場する、満州にて「羊」に取り憑かれては見放され、抜け殻として余生をすごすあわれな男と重なるものがある。
 保田與重郎と村上春樹氏はともに、「闇」に対し恐怖を感じている。ワーグナーの描いたジークフリートは恐怖を知らぬまま、大蛇の心臓をひと突きし、財宝をわが物とした。一方コンラッド『闇の奥』のクルツは、大蛇に喩えられるコンゴ河をさかのぼった奥地で膨大な量の象牙を蓄えるが、病魔に蝕まれ、「The horror! The horror!」という言葉を残し息絶える。つまりは恐怖の認識である。
 強欲と縁のなかった保田與重郎を、日本の「負󠄂目」を引き受ける、自覚的なクルツとして物語ることはできるのだろうかと、僕は考える。どこまで行くとも知れぬ日本軍の旅路と、それを浪漫的に讃えた『蒙疆』は、コンゴ河と格闘し続けたクルツを思わせる。永井荷風『断腸亭日乗』には八月十五日の玉音放送を聞き「休戦の祝宴」を楽しんだという記述があり、これを読んだ保田與重郎は、怒るのではなく悲しんだ。福田氏は「日本にかかわる総ての言葉を引き受け、あるいはいかなる悪も自らから切り離さない開かれた精神をもっている」と評す。僕はこの批評を読みながら、涙をこらえるのに必死だった。「石門の軍病院にて」によれば、保田は敗戦を知った時、「腸を斷つ思ひに、地獄の業をうけてゐ」るとも感じていたという。「荷風を類なき衆生として、あるいは忌むべき敵として切り捨てる事が出来れば、保田は「地獄」を味わうことがなかったろう」とも福田氏は述べている。この「地獄」という単語から僕は、クルツの「The horror! The horror!」という最期の言葉を、中野好夫が「地獄だ、地獄だ」と訳したことを連想する。クルツは恐怖を悟ったのであり、より正確に訳すならば「恐怖だ、恐怖だ」となるけれども。
 クルツをめぐるエピソードの語り手である船乗りマーロウは、苦行僧のような姿勢で物語る。マーロウの話を聞くことになる船上の人々は、瞑想的な気分になり、静かにあたりを眺めていた。マーロウの語りに登場する操舵手は、クルツと同じように、自制することを知らない人物であり、脇腹を槍で突かれ亡くなる。脇腹は仏陀が生まれてきたとされるところだ。よって象牙に憑かれていたクルツの最期は、物欲からの解放であるだけでなく、現世からの解脱でもあった。西洋の業を象徴的に背負う、スケープゴートであった。一方保田與重郎は、幸か不幸か、深い闇の奥底で「何かの悟りをひらいたといふのではな」かった。己の分際を知りながら、罪と理想をその身に背負い、生き続けることを選んだのである。村上春樹氏が影響を受けた『闇の奥』とフィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』の関係は、すでに多くの研究によって指摘されているところだが、時代の精神を体現したかの理想主義者の姿は、クルツよりもギャッツビーにより近しい。目的の為に手段を選ばずその手を罪悪で汚したギャッツビーへの、語り手ニックによる言葉を、僕は保田與重郎へと贈りたい。

「あいつら、腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。「あんた一人でも、あいつら全部引っくるめたのと、いい勝負だ」(小川高義訳)

 失意と死の淵から帰還した保田は、日本の戦争遂行に協力したという理由で、戦後徹底的に侮蔑され、文壇の表舞台からパージされた。しかし彼の主張は軍部の意向に沿うものではなく、近代戦や総力戦体制を一貫して批判し続けるものだった。さらに言えば、『校註祝詞』『鳥見のひかり』など昭和十八年以降に展開されてゆく保田の神道論は、戦時体制の現状とそこにおいて流布された神道論に対する憂いの反映でもあった。
 あの混沌の時代において、荒野のなかをどこまでも進軍してゆく日本人の心を、保田與重郎以外に誰も、思索しかつ文学として歌いあげられなかった。その旅路が閉ざされたあと、保田は日本の「負󠄂目」を背負うスケープゴートとされながらも、目を背けることなく「負󠄂目」と向き合いつつ、己の志のあり方を考え続けた。保田の語りに触れるたびに僕の心は、そこで述べられる伝統の姿と現代人の生活との距離に引き裂かれる。と同時に、自分の育った大和の地がこのような人物を生んだことに、確かに慰められ、また励まされるのである。

 明日の日のさだめは、その負󠄂目をおふものの上にあるべし、おのれ自身のその負󠄂目を、どのやうに多く考へ、どれほど多く背負󠄂ひ、しかもそれに耐へ忍󠄁んでゆくか、一切のことはこゝにかゝつてゐる。辛棒の出來ないものが、手輕で身近で安樂な身の處し方にはしり、おもひがけないところで、とりかへしのつかぬ罠に陷つたことに氣づく。むかしはこともなく考へてゐた、淸風高踏の隱者たちの、僅かのことばで語られる一代の物語が、今にして千萬斤の重さをもつてわが雄心をゆさぶり、且つわが身うちの淚河の堰を切り放つのである。この淚河といふのは、王朝󠄁󠄁󠄁の女流詩人の敎へたことばであつた。身體に血の流れるみちがあるやうに、と私は註釋するが、淚は川をなして體の中を流れてゐると、その女性は歌った。このやうなことを味つた女性たちは、どのやうなおそろしい深い體驗の持主であつたことだらうか、例へ彼女の經驗が、多彩󠄁で苦難にみちつゝも、すべて情󠄁事のものであつたとしても、それが男子のおもふ一大事と、どこに何の差異があらう。(「みやらびあはれ」)

  二

 村上春樹氏の『羊をめぐる冒険』『1Q84』への、コンラッド『闇の奥』の影響はすでに言及されている。本稿において僕は、ここにとりあえずは一作、『ねじまき鳥クロニクル』の名を加えておこうと思う。『ねじまき鳥クロニクル』ではハルハ河が「蛇のように曲がりくねりながら流れていました」と描写されている。まず間違いなく、『闇の奥』のコンゴ河に重ねられている。『闇の奥』の主題である西洋の植民地主義への批判は、日本の大陸進出への批判に言い換えられている。
 ノモンハンを舞台とするエピソードは、間宮中尉という人物の口から主人公岡田亨へ向けて語られる。二人を出逢わせたのは、中尉の戦友であり命を救った恩人でもある本田伍長である。主人公とその妻クミコの結婚がクミコの両親に承諾されたのは、両親の尊敬する本田さんが結婚に賛成したからだった。主人公がクミコの父親と喧嘩をして顔を合わせなくなるまで、主人公とクミコは月に一度本田さんの家を訪れ、ノモンハン戦の話を聞いていたのだった。「ノモンハンにはまったく水がなかった」という本田さんの言葉は本作のクライマックス、涸れたはずの井戸から湧いてくる水と対比になっていると考えていいだろう。井戸の中で溺れそうになる主人公は、「水には気をつけた方がいい」という本田さんの忠告を回想している。井戸から湧いてきた水が温かいことと、その直後の章の内容(月明かりに照らされた少女が堰を切ったように涙を流す)から察するに、ここにおける水とは涙、そして癒しの隠喩である。
 本田さんの遺書を受け取った間宮中尉はその内容に従い、形見の品である厳重に包装された「カティーサークの贈答用化粧箱」を主人公へ渡す。主人公は外蒙古の砂漠にある涸れた井戸の底で二日間をすごした中尉の壮絶なエピソードを聞く。井戸の底の暗闇とそこで感じる恐怖はもちろん、『闇の奥』由来のものである。話を終えた中尉と別れ、「知らない町に一人で置き去りにされてしまった子供が感じるような、やるせない気持ち」になった後、箱を開いてみると中身は空っぽだった。しかし本田伍長が主人公へ遺していったものは、決して全き虚無などではない。間宮中尉いわく、伍長は「ちょっと自由になる時間があると、その辺に寝ころんで仏教関係の本を読んで」いたという。本田さんは「不在」を蔵する箱を間宮中尉から主人公へ渡させることによって、両者をつなげる橋となったのだ。華厳経の縁起の教えを思わせる話である。色即是空、空即是色というが、ここにおける「不在」は、仏教の空の観念にどこか似通っている。あたかもハイデガーのヘラクレイトス論の如く、認識次第で空虚にも顕現にも化ける。
 間宮中尉から箱を受け取った日の夜、妻のクミコは家を出ていく。そこから物語が展開されてゆくなか、主人公はクミコをより深く理解していく。自分とクミコについて思索するために主人公は家の近くにある井戸に潜ることになるが、初めて潜る直前、ナップザックを背負いながら子供のころ一度家出をしたできごとを思い出す。見知らぬ遠い町で夕焼けを見ていた寂寥感を回想し、行方をくらませたクミコの心中に思いを馳せている。この場面は「知らない町に一人で置き去りにされてしまった子供が感じるような、やるせない気持ち」に対応していると同時に、クミコへの理解を深める第一歩でもある。主人公は一筋の細い糸をたぐり寄せるように、クミコの「不在」と向き合い続ける。井戸での瞑想を通して「夢というかたちを取っている何か」の世界へ移動できるようになるが、そこではカティーサークが謎の女性のいるホテルの部屋にルームサービスとして運ばれてくる。本田さんが遺した縁起は、確かに主人公を導いたのだ。主人公はやがて、謎の女性が他でもないクミコなのだと確信する。
 『ねじまき鳥クロニクル』は、ヒロインのクミコをめぐる、主人公とその義兄の綿谷昇の対立を本筋とする。綿谷昇は伯父の影響を受けており、彼のあとを継いで新潟の選挙に保守党から立候補、当選する。かつて技術官僚であった伯父は、昭和七年に満州へ渡り、石原莞爾に強い影響を受けていた。もともと経済学者である綿谷昇は、伯父の兵站線の思想を換骨奪胎して地域経済を語る。これは推測にすぎないが、伯父のモデルは岸信介あたりなのだろう。つまるところ村上氏は、ファシズム的戦中と自民党的戦後の連続性に着目しているのだ。主人公は井戸に潛り、内省することで、自民党的戦後から隠遁していたということになる。
 第1部では、綿谷昇が亡くなった姉の服の匂いを嗅ぎながらマスターベーションをしていたことがクミコによって語られる。昇は「かなり深刻な精神的トラブルを抱えて」おり、姉やクミコを「汚し」ており、姉はその結果自殺した。昇と姉、そしてクミコの三人兄妹という設定は、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の影響と思われる。怜悧で家族を原因とする深い心の歪みを持つ昇は、イヴァンおよびスメルジャコフの属性だ。一度主人公の前から失踪し、他の男と寝るクミコはミーチャと同様、罪を背負うことになる。善良な姉は詳しく描写されないが、アリョーシャが最も近いだろう。なお「夢というかたちを取っている何か」のなかで、クミコと入れ替わり主人公と交わる、加納クレタという女性も「三人兄妹の三番め」である。
 当初から仲が良いとは言い難かった主人公と綿谷家は、クミコとの結婚から一年ほど後、ほぼ顔を合わせなくなる。昇はかつて姉が果たしていた役割をクミコに求めていた。主人公とクミコの結婚は擬似的な略奪婚と言ってもいいだろう。村上氏は、河合隼雄との共著『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』にて、「『ねじまき鳥クロニクル』を書くときにふとイメージがあったのは、やはり漱石の『門』の夫婦ですね」と述べている。『門』の主人公野中宗助は、家主・坂井の内縁の妻であった御米と結婚した。また略奪婚の設定を漱石は、『門』だけではなく、『虞美人草』『それから』『こころ』などの作品でも用いている。『門』の坂井は大陸浪人であり、『草枕』のヒロイン那美の別れた亭主も同様に大陸浪人であり、満州へ渡る。『彼岸過迄』の主人公田川敬太郎は、学生時代に初期玄洋社のメンバーである児玉音松の冒険譚を読んで影響を受け、満鉄か朝鮮で就職しようとしていた。『ねじまき鳥クロニクル』の、満州を背景とする主人公と綿谷家の対立という構図は、夏目漱石の影響下にあると見ていいだろう。
 「夢というかたちを取っている何か」の世界でクミコと再会した後、目を覚ました主人公は、綿谷昇が長崎での公演後、関係者との食事中に脳溢血により倒れたことを知る。その後主人公は再び眠り、加納クレタが赤ん坊を抱いている夢を見る。子供の父親の半分は主人公、あと半分は間宮中尉なのだという。「広島の山の中で間宮中尉と一緒に野菜を作りながら平和にひっそりと暮らしているのだと」いう。このクライマックスの場面、文庫本にしてわずか三頁の間に、二つの地名がたて続けに出てくる以上、この小説は先の大戦をテーマにしているとしか考えられない。クミコを「夢というかたちを取っている何か」の世界から連れて帰ろうとする主人公は、「これは僕にとっての戦争なのだ」と語っている。
 『ねじまき鳥クロニクル』を執筆した村上氏の目には、石原莞爾は「『あわよくば』という冒険主義」(「草原の中の鉄の墓場」)の権化として映った。ではそのような精神の体現者である綿谷昇と対立した主人公とは何者なのか。
 主人公とクミコの最初のデートは水族館だった。特別展示されていた世界中のクラゲにクミコは夢中になっていたが、主人公は子供の頃に体を刺された経験があり、気分を悪くしてしまう。これに気づいたクミコは「僕の腕を取るようにして、湿っぽく薄暗い水族館から陽光の下に連れ出してくれた」。その後しばらくして主人公は調子を取り戻す。この場面は、村上春樹氏に影響を与えたことで有名な『グレート・ギャッツビー』を参考にしたものと僕は見ている。主人公ギャッツビーは第五章、ヒロインのデイジーと再会する時、雨に濡れながらひどく緊張している。語り手のニックが気を利かせて席を外し、しばらくすると雨が上がった。ニックが二人のもとに戻ると、「さっきと違うのはギャッツビーだ。あきれるほどに、がらりと変わっていた。輝いているとしか言えない。どれだけ喜んでいるのか、言葉や行動に出てくることはないのだが、いままでにない幸福感を小さな部屋いっぱいに放っていた」(小川高義訳)。『ねじまき鳥クロニクル』の主人公はギャッツビーと同様、太陽に親和性があるのだ。当時主人公が住んでいた阿佐ヶ谷のアパートは「日当たりの良さが唯一の取柄だった」。「僕とクミコは長いあいだその日溜まりの中に並んで座り、壁にもたれていた」。なおギャッツビーは昔の恋人であるデイジーの奪還に失敗、プールで溺死するが、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公はプールと井戸で二回、溺死しかけている。
 その日主人公は初めてクミコを抱いたのだが、クミコをアパートに招く前、二人は新宿御苑を散歩していた。新宿御苑は戦前、皇室の庭園だった場所だ。クミコが失踪した後、主人公は結婚してから一日も欠かさず、二人で朝食を取っていたことを回想する。この「ほとんど儀式に近い行為」とは、大嘗祭および新嘗祭の暗喩であろう。主人公と同様右頬にあざを持っていた、満州国と運命を共にした獣医は「自分を、実権を握った摂政の強制によってただ国璽を押すだけの、名目的な国王みたいに感じていた」。「ちょうどこの満州国の皇帝のように」との形容が続くが、これは彼の正体を悟られない為のフェイクであろう。主人公と獣医はポツダム宣言の受諾まで聖断を下さなかった天皇であり、主人公と綿谷昇の「戦争」が終わった後、拘置所に入ることになるクミコは、巣鴨プリズンに投獄されるいわゆる戦犯に当たる。
 『ねじまき鳥クロニクル』はこうして見てみると、佐藤卓己氏の指摘した「八月十五日の神話」を前提とした戦後民主主義的なものと感じられるが、それはあくまで結論のみを見た印象に過ぎない。クミコつまり戦犯への眼差しや、人間心理の暗部に蔓延る闇の描写は、戦後民主主義とは縁のないものだ。さらに言えば、その全てを把握できるわけでもなく、数え切れないものではあるが、対句表現の豊富さは春樹作品の中でも一二を争うように感ぜられる。華厳経の描く一即多・多即一の世界のように、一つ一つの要素が複雑に絡み合い、壮大な世界観を作り出している。メタファーが一人歩きせず、「水」を中心に一つの大きな流れに収斂している。僕は『ねじまき鳥クロニクル』を、村上春樹氏の文業の最高到達点と考える者である。
 ここまで見てきたように、春樹作品は世界中の文学作品のパッチワークである。英米のみならず様々な国の文芸を典拠としつつ、それらの物語には確かに、日本ならではの歴史の文脈と、近代日本文学の系譜が秘められている。そして『源氏物語』を典拠に擬似的な母と子の関係を描いた『海辺のカフカ』以降、明らかに村上氏は「日本」回帰を果たした。この「日本」回帰が、萩原朔太郎のいう「日本への回帰」であることは言うまでもない。村上氏は世界各地に移り住み、『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンを描き、とうとう「日本」へ帰ってきたのだ。

 平成二十九年に発表された『騎士団長殺し』では、村上氏の「日本」回帰を象徴するエピソードが語られる。物語は劇中に登場する「騎士団長殺し」という日本画に従って展開される、作中作の構造を持つ。「騎士団長殺し」の作者である雨田具彦は主人公の友人の父親であり、「日本画壇における重鎮の一人」だが、若い頃は「モダニズム絵画を指向し、ウィーンにまで留学」していた。そして帰国後、唐突に日本画へ回帰するのである。その原因について、作中では、ナチス高官の暗殺未遂事件に雨田の恋人が関与し、処刑されたのではないかという話が展開される。しかしそれは物語の枝葉に過ぎない。雨田の弟が関与し自殺した、南京事件についても同様だ。
 「騎士団長殺し」は作中で指摘されているように、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』を典拠としている。雨田、そして村上氏は、飛鳥時代の舞台とモーツァルトのオペラの世界を重ね合わせたのだ。「ドン・ジョバンニ」が「騎士団長」を殺め、その現場を従者の「レポレロ」と「ドンナ・アンナ」が目撃する。彼らが「天平風の衣装」を着ている以上、構図の意味する事件は、乙巳の変以外にあり得ない。
 雨田と同じく画家である主人公は、絵の教え子である秋川まりえを救出するため、騎士団長を殺害する。この中大兄皇子はドン・ジョバンニと同様、地獄に落とされる。主人公を地下で導くドンナ・アンナは、主人公と一度別れた妻のユズにあたる。その後主人公と復縁するユズは、重祚し斉明天皇となる皇極天皇でもある。
 人間という存在そのものの残虐さ、惨たらしさと向き合う村上氏の文業は、とうとうこのような景色にまでたどり着いた。彼は日本の未来を守りぬくためならば、熱狂を避けつつも、進んで剣をとるべきだと主張するのである。その理屈は至極当然ではあるが、僕は村上氏の仕事に一抹の不安を抱かずにはいられない。

 私は椅子に腰を下ろし、床の上にのびている顔ながが意識を取り戻すのを待った。窓の外では広大な太平洋が陽光を受けて眩しく光っていた。一群の漁船はまだ操業を続けていた。銀色の飛行機が一機、滑らかな機体を光らせながらゆっくり南に向けて飛行していくのが見えた。後尾に長いアンテナを突き出した四発のプロペラ機——厚木基地を飛び立った海上自衛隊の対潜哨戒機だ。土曜日の午後とはいえ、人々はそれぞれの日々の職務を黙々とこなしている。そして私は日当たりの良い高級老人養護施設の一室で、騎士団長を今しがた出刃包丁で刺し殺し、地中から顔を出した「顔なが」を捕縛し、失踪した十三歳の美しい少女の行方を捜している。人さまざまだ。(『騎士団長殺し』第2部 遷ろうメタファー編(下))

 この場面において「海上自衛隊の対潜哨戒機」は、明らかに騎士団長を刺し殺した主人公と重ねられている。自衛隊機は第1部の下にも登場しており、主人公の絵を描く動作はしばしば、パイロットの操縦に喩えられている。この表現では村上氏が、自衛隊員という一個人ではなく、自衛隊という組織そのものを肯定していると誤解されかねない。さらに言えば、このような細部の描写において、一人の自衛隊員と、自衛隊の組織を厳密に区別することはできるのだろうか。
 自衛隊は昭和二十五年、警察予備隊として創設された。元はといえば対反乱作戦の遂行を目的としており、マッカーサーの要請によって生まれたのだ。「海上自衛隊の対潜哨戒機」が飛び立った厚木基地は、日本の降伏後マッカーサーが降り立った場所でもある。軍事ジャーナリストの清谷信一氏は、世間の常識から乖離した自衛隊の隠蔽体質を繰り返し批判しているが、五ノ井里奈氏の性暴力被害告発は、読者諸賢の記憶に新しいだろう。自衛隊に所属する心ある人を僕は知っているが、貴重な人材をぞんざいに扱い潰していくような組織は、断じて肯定できない。
 僕には『騎士団長殺し』が、極めて体制順応的な作品に感じられるのである。『海辺のカフカ』以降、村上氏は「父殺し」を描き続けてきた。騎士団長は「諸君が殺すのはあたしではあらない。諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ」と主人公たちに語る。「邪悪なる父」は南京事件を起こした日本軍やナチスの暗喩でもあるのだろうが、今の日本社会において、果たして「父」はいるのだろうか。作風も関係しているに違いないが、村上氏の描く「父」の姿は抽象的で茫漠とした印象である。現代社会に話を移すと、安倍元総理は左派をも含む我々戦後日本人の「父」だったのかもしれないが、彼の暗殺された事件は戦後日本の暗部のなし崩しな露呈であり、新たな「父」の誕生を意味しなかった。社交的である一方確固たる主張を持たず、周囲の意見のあべこべな併呑を政策とした安倍元総理の姿は、小泉純一郎氏以降の右派ポピュラリズム(人気主義)がたどり着いた劣悪なイロニーに他ならないが、平成における右派ポピュラリズムの勃興なくして、『騎士団長殺し』は果たして生まれただろうか。
 ファシズムという「邪悪なる父」は、すでに獄中に幽閉され、我々にとってみれば一度死んだようなものなのではないか。その認識を糊塗するかのように、『騎士団長殺し』では騎士団長が地下から召還され、再度葬られる。スケープゴートたる騎士団長の封印されていた地中の石室は、牢獄の暗喩だったのだ。そして作品世界からは丁寧に、アメリカの影が払拭されている。なるほどファシズムは悪に相違ないが、無論その事実はあくまで相対的なものであり、連合国の潔白を保証するものではない。「父殺し」というフロイト的な図式がヤルタ・ポツダム体制に回収された結果、「邪悪なる父」をめぐるマッチポンプの物語が生まれたのではあるまいか。故に僕は、『騎士団長殺し』のテクストの政治性を警戒するのである。球児が戦没者に追悼を捧げる真夏の高校野球と同様、『騎士団長殺し』は、戦争という祝祭を封じられた敗戦国のため息なのだと言えよう。

 春樹作品の主人公に移動はつきものである。『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』では主人公が東京から北海道へと移動し、『ノルウェイの森』はドイツのハンブルグ空港に飛行機が降り立つ場面から物語は始まる。『海辺のカフカ』では主人公の少年が夜行バスに乗り、『1Q84』は青豆が首都高の非常階段を降りる。「高速道路のサービスエリアなんて、結局はただの通り過ぎる地点じゃない。(中略)なんに意味があるかといえば、私たちがどこから来て、どこに行こうとしているかってことでしょう」(『海辺のカフカ』)という台詞は、春樹作品における移動の持つ性格を象徴的に物語っている。
 万物が商品化されていく資本主義社会において、移動は取引に付きまとうコストである。自己増殖を欲する資本にとって、空間は効率を損なう要因に他ならず、可能な限り簡略化する必要が求められる。フランスの人類学者マルク・オジェは、「アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるとも定義することのできない空間」を「非-場所」と呼び論じた。移動のための空間である「非-場所」の拡大は、人間関係や土地に宿る歴史を解体してゆくのだ。空港や高速道路のサービスエリアといった、脱臭化された「非-場所」を利用する春樹作品の主人公たちの物語は、資本が張り巡らせる物流の網目と共にある。
 阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件の起こった平成七年を境に、村上氏は地下を、人々の日常から抑圧された無意識の心理が渦巻く空間と捉えるようになる。このようなユング的な想像力に基づく空間の捉え方は、我々の日常を均質に覆う「非-場所」の性質を隠蔽する役割を果たす。物語の本質がそうであるとは言わないが、空間論の視座から考える時、春樹作品と資本がもたらすグローバル化の親和性は極めて高いと言えるだろう。
 つまるところ村上春樹氏の回帰した「日本」とは、資本のもたらすグローバル化とヤルタ・ポツダム体制に蝕まれた戦後日本に他ならないのだ。保田與重郎と同様、特殊としての国土に「帰郷」を果たすが、氏はその後、普遍の暗闇へと落ちていくのである。所詮僕も戦後日本人の一人に過ぎぬが、彼の描く物語を、目の前に広がる現実を飲み下す助けにはできない。明日も僕はえずきを堪えながら、僕に筆を走らせる何者かの声に耳を澄ませ続けることだろう。そうして紡がれる物語に、言霊のみやびの片鱗が宿ることを祈りながら。

  三

 保田與重郎は敗戦後、自宅のあった東京へ戻ることは微塵も考えず、故郷の奈良桜井の地へ帰農することになる。それはいかにも、保田にとってごくごく自然な行いであった。
 昭和十八年に独自の神道論『鳥見のひかり』を著した保田は、より具体的な形で伝統を語るようになっていた。福田和也氏はこの変化を、「存在」について問う主体性を放棄し、受け身の態度に徹するようになるハイデガーの「転回」を補助線とし、「神とともに書いている」と評する。余談だがこの二人の「転回」は、後年の新左翼の前衛党の断念の前蹤と言える。
 晩年の保田はよく、書を頼まれた時「自然」と書き、「かむながら」と人に訓ませたという。僕がどうしても保田を無視できないのは、大和の地に宿る歴史の記憶を徹底して血肉化し、思想形成した人物であるからに他ならない。戦後の彼の文章は、「橋」と遠征の迅速を語らなくなった代わりに、平成末期に外国人観光客を呼び寄せる前の古都のような、静けさと祈りに満ちている。少なくとも奈良市街にはもはや見られなくなった何かの面影が、文体の中に息づいている(念の為に付言しておくが、浅薄な島国根性の表れである排外主義には与しない。観光立国だの何だのと、空虚な意匠で自らを飾り立てようとする人々の無邪気さに、同胞として恥じ入るだけである)。保田は故郷の山河そのものとなって、伝統を語ったのだった。彼を帰農させたのは、ムスビの神の働きと切っても切り離せぬ「自然」の道だったのである。
 桜井に帰った保田は、近隣の農家の人々の助言や、元禄時代に書かれた宮崎安貞『農業全書』を頼りに、一町二反の土地を耕した。三輪山、鳥見山、耳成山といった古代の記憶香る山々が、すぐ近くに見える場所だった。保田の帰郷について福田和也氏は、「南朝の吉野還幸にも似た、敗戦後のパルチザンであった」とする。とうとう保田は、「戦後」と縁を持たぬままその一生を終えた。鍬の一振り一振りが「戦後」への爽やかな拒絶であり、農業から手を引いた後の文業も、一貫して「戦後」と対峙し続けるものだった。
 この国の始まりとともにあった山の辺の道は、敷島の名で高名な桜井の磯城島から、澁谷の崇神天皇と景行天皇の御陵あたりまでを基幹とする。『山の邊の道』には、「この道から、東と南の山地一帶が、最後まで南朝の勢力圈だつた。山の邊の道は南朝の道で、又吉野の南朝を守つた最前線だつた」とある。保田の尊敬する国学者の一人である伴林光平は、天誅組挙兵の報を大阪にて同志から聞き、生駒の峠を越え、法隆寺と葛城の森を経由し、五条へ駆けつける。天誅組壊滅の後、光平が捕らわれるまで彷徨った吉野山中や宇陀、長谷の地は、川村二郎の指摘した通り、ほぼ後南朝の史跡に当たる。国学の忠実な継承者である保田は、永遠の維新の心を昭和の御代へ伝えたのである。青垣山籠れる大和の地は、保田の心をこの世の何処にもない王道楽土へと導いた。痕跡の明瞭さ故に、その悲痛はなお一層烈しい。

 米作りを要とする保田與重郎の神道論は、本居宣長による神道と老荘思想の差異についての考察や、鈴木重胤の『祝詞講義』を忠実に踏まえ、二十世紀の文脈に語り直したものである。古典の註解を主とする保田の論は、国学と同様、「国際的宗教」の一種である吉田神道を批判する。
 吉田神道は、神道の中世と近世を橋渡しする一派と言えよう。神仏習合が進んだ中世神道は、仏教優位の流派と神道中心の流派の大きく二つに分かれる。天台密教による理論である山王神道や、真言密教の両部曼荼羅にもとづき解釈された両部神道などが前者にあたり、伊勢神宮に基盤を置く伊勢神道は後者に相当する。そして応仁の乱の混乱を機に、吉田兼倶の唱える吉田神道が広く受け入れられるようになる。兼倶は、密教の他に宋学や道教、陰陽道なども参照し、それらの頂点に神道を据えた、伊勢神道とも異なる独自の教説を創り上げた。
 保田與重郎は大祓詞を神学的に解釈した吉田神道を観念的な人為の教説とし、「朝󠄁󠄁󠄁廷内外につかへるすべての人々から、農に從事する大御寶の全部のために、それらの者が一年閒に犯した罪穢を、一括して祓ふことで、天皇陛下がそれらの罪穢を悉くひきかついで、祓つて下さるといふのが、この大祓の本意である」(「六月晦大祓」)とする。「国家神道」なる呼称が適切であるか否か、現在様々な議論がなされているが、保田は「中央集權的國家神道」(「にひなめ と としごひ」)を、「文明開花の國際宗敎」即ちキリスト教に対抗するため、「新神學を立てて、原罪の思想を入れ、これと中世以後の大祓信仰を結合し」たものとも述べる。「中央集權的國家神道」の派生である神道論が戦時中さかんに唱えられ、幾多の人間を支配し動員した事実を、保田は許せなかったのである。
 記紀や『続日本紀』、古代の祝詞をまとめた「延喜式祝詞」などに見られる「依さし」という言葉は、鈴木重胤の註釈に従えば、神様がご自分だけでは為し遂げられぬ仕事を配下の者に任せることを意味する。祭りの際に捧げられる神饌は人為だけでは決して生まれず、生産に携わるまさにその時、神助が働いていると先人は考えたのである。保田は「事依さしは詔として命ぜられるものである。しかれば命令と受命の關係であるが、ことごとく委任されるのではない。命を拜してこれに仕へ奉るのであつて、その成果を復奏した時に、事依さしは終了するわけであるが、命を拜して奉行する間は、つねに詔を下し給つた天皇或ひは神と、民との間は斷たれることがない」(『鳥見のひかり』)と述べている。
 田の神への信仰を背景に広く受容された稲荷神は、神像や絵像では、文字通り稲を荷う農民として描かれてきた。稲荷神は主に農家のあいだで祀られてきたが、中には商工業者や漁業者も信仰していたのである。これらの事実は、「依さし」という言葉に表れている思考が、日本人の労働観の基礎となり、近年まで受け継がれてきたことを示している。
 保田は『鳥見のひかり』において、記紀に記された天孫降臨時の天壌無窮の神勅、神鏡奉齋の神勅、斎庭穂の神勅を「國體の根本」と述べ、一体のものと見なした。古代の人々が、天と雨という二つの漢字にアメという訓みを与えたことを思い起こさせる。稲を育むアメは天上より降り注ぎ、やがて天上へ還ってゆく。ここに循環の理と、米作りのくらしの永遠を見たのである。ここにおける永遠は観念ではなく、あくまで生活の実感に裏付けられていたのである。また、年月を意味するトシという言葉は、稲が実り収穫されるまでの一周期のことを指した。
 「延喜式祝詞」が示す重要な祭りは保田によれば、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、新嘗の三つである。一年の始めに行われる祈年祭は田植えと耕作の始まりでもあり、「新嘗を行ふために豫め行ふ」(「にひなめ と としごひ」)、神を招いた饗宴である。「延喜式祝詞」に記される祈年祭と月次祭の祝詞はほぼ同一であり、同じ性質の祭りと言える。大嘗祭および新嘗祭の起源にあたる、神武天皇の鳥見山大祭については『鳥見のひかり』に詳しいが、『日本書紀』の記述から拝察されるのは、大祭が「神敕の事依さししまゝに完了し、卽ちそのことを、幣物を置き足らはす形に成就し、こゝに神敕のまゝを復奏する祝詞申す」という性格であったということである。折口信夫の『大嘗祭の本義』以来跋扈してきた、農耕と結びつかぬ観念的な仮説の数々は、岡田莊司氏の大嘗祭研究によって今や一掃された。あくまで大嘗・新嘗は、天皇が新穀を神々と共食し、神助への感謝と事依さしの完了を申し上げる儀式なのである。なるほど折口信夫は天才的な民俗学者であったが、彼の成した仕事はあくまで仮説であり、鵜呑みにするのは危険である。
 神助のもと生産・収穫された新穀や山海の幸を、祭りを経て神人ともに分かち合う。人々は皆、祭りの為の生産のくらしに携わっていたのであり、大化の改新の原因である氏族制の退廃よりも以前の「天職相續時代に於ては、利といふものの支配がなかつたから、職の高下貴賤もなく、いづれの生產も祭政一致の執行上、重要さでは區別がな」(『鳥見のひかり』)かった。
 祭りにおいて唱えられる祝詞には、生産物の持ち主についての定めがない。古代における富の観念は今日と全く異なるものであり、保田は近代の基礎たる所有権の思考を神道の理念とは相容れないものとする。日本人の労働観が、明治以降の日本の近代化の一助になったと考えることはできる。ただし労働観の基礎たる事依さしの思想は、西洋における資本主義成立の一要因となったプロテスタンティズムの倫理と、明確に異なる。「国際的宗教」に見られる原罪や救済の観念は、かむながらの道に無かったものである。
 保田は祭りとくらしを二分法ではなく、一体のものとして捉えた。一九七〇年代以来、ケガレをケ——つまり生命エネルギー——のカレた状態と解し、ハレ(非日常)の時間とケ(日常)の時間という対立構造を考える民俗学の議論がまかり通ってきた。しかしこのような説は、語源研究から遊離しているとする西宮一民の指摘によって否定された。従来のケガレをめぐる議論は、デュルケームの聖俗二元論や文化人類学の汚穢論を背景とした、アカデミックな植民地化と断じていいだろう。こうした仮説もまた、保田が徹底的に非難した「国際的宗教」の変種なのである。
 米作りの生活を倫理の中心に据える保田與重郎の主張は、現代人には実感しにくく、ある種の抽象性を帯びて聞こえる。しかし自身の文学的な理想を謳いあげる批評と、月刊雑誌『祖國』などに寄せた政治的主張の温度感の違いを踏まえるべきである。保田は日本人の労働観の基礎を語ったのであり、工業の排除を唱えたわけではない。「保田與重郎の世界観は、農業対工業ではなく、産業対商業である」とするロマノ・ヴルピッタ氏の理解は適切であろう。蔓延する消費文化は人間関係さえも商品化して消費することを要求し、金融を中心に絶え間なく自己増殖を繰り返す資本は、もはや実物資源による価値の裏付けを失っている。我々はこのような時代に生きているからこそ、消費ではなく生産の意味を考える必要があり、保田の主張はその一助となるのではなかろうか。

 若き日の保田與重郎を中心とする日本浪漫派は、アメリカ風の消費文化としての大正教養主義と、政治の論理に隷属するプロレタリア文学の両者に抗する、第三極だったと言えよう。そして保田は、昭和十八年を境に決定的に転回し、文芸批評家から思想家へと成熟を遂げた。日本武尊や大伴家持、王朝の女流歌人、後鳥羽院、そして芭蕉へ至る日本文芸の系譜をたどった保田は、系譜の根源にある米作りの暮らしの思想を、明確に語るようになった。『祖國』や『新論』に社会時評を寄せてもいた戦後の保田の仕事は、文芸批評という言葉の域に収まるものではない。マルクス主義つまりスターリニズムとアメリカニズムの双方を仮想敵とした保田が、新左翼に影響を与えたのは至極当然のことだった。
 保田與重郎の過ちは、純粋な日本なるものがあると信じ、その面影に惑溺したところにあるのだろう。文化は雑種のものであり、異質なものとの対話と共存は記紀の主題の一つではある。ただし歴史にもとづく境界を取り払った、手触りに欠ける、普遍かつ神話的な物語は、他者をそして自分自身をさえ見失わせるのではなかろうか。保田の文芸は、大和桜井の地に生を享けた運命がもたらした悲劇だった。僕の保田への思いは、到底一言で言い表せるものではない。
 盛夏の蝉のけたたましい読経を聴きながら、自分にはいかなる「日本」を描くことができるのだろうか——より正確に言えば、先人の業績をもとに描いたものが事後「日本」と見なされうるのだが——と僕は考える。先人たちはこれまで幾度も、アイデンティティの危機に立たされてきた。保田與重郎の論じた万葉集も、外来の制度や文化の移入がもたらした危機意識から生み出されたのである。自宅の庭の草木が作る影をぼんやりと眺めていると、和泉式部の次の歌が、不意に思い起こされた。

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき
    はるかに照らせ山の端の月

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