2025年4月30日 12:00文責 火野佑亮
昭和五十六年十月四日、保田與重郎が亡くなった。享年七十二歳。故郷桜井の市営墓地に葬られたが、分墓が一つ、大津の義仲寺にある。保田の敬愛してやまなかった、木曽義仲と松尾芭蕉ゆかりの寺である。江戸の中期までは、義仲を葬った小さな塚だったという。この地を愛した芭蕉がたびたび訪れ、のちに遺言し、墓を建てさせたとされる。 保田與重郎は晩年、義仲寺の復興に力を注いでいた。戦時中から戦後にかけて荒廃の極にあった義仲寺の再建を、三浦義一に持ちかけたのは、保田であった。三浦は戦後、政財界のフィクサーとして活動し、日本橋室町に事務所を設けたことから、「室町将軍」と呼ばれていた。戦中より親交のあった三浦は、保田にとって信頼できる資金提供者であった。保田に師事していた谷崎昭男が評伝で述べているように、保田が話を持ちかけなくては、三浦…
続きを読む2024年12月10日 12:11文責 吉野
自由の人よ、君はいつでも海をいとしむだろう! 海こそが君の鏡だ。君は自分の魂を限りなく寄せては返す波に見る、 そして君の精神も深淵の苦さにおいて劣りはしない。 今回のイタリア旅行の目的はヴェネツィアビエンナーレの鑑賞とされる。しかし、わたしにとっての目的はフィウメであり、ミラノであった。イタリアという場所は私にとっては共鳴するイタリア未来派の故郷であることなどから愛着のある土地である。ビスマルクはリソルジメント時のイタリアをつぎのように述べた。「イタリアは国家ではなく半島である」。イタリアの統一運動の歪みというものは、歪んだナショナリズムを生み出した。その舞台となったのは今回訪れたフィウメであった。そして、歪んだナショナリズムによって生まれたイタリア未来派はミラノで誕生した。未来派はロシア、フランス、日本など…
続きを読む2024年2月27日 12:04文責 火野佑亮
福田和也氏の著作『保田與重郎と昭和の御代』の第一章は、「平成の精神」と題されている。当時『ねじまき鳥クロニクル』第1部と第2部を発表し、ノモンハン事件当時の凄絶な皮剥ぎリンチの場面で話題を呼んでいた、村上春樹氏への言及からはじまる。 ノモンハンを旅行中、真夜中突如として訪れた「激しい地震」に村上氏は「深く理不尽な恐怖を味わ」い、「それほど暗い闇を見たのも初めてだった」と回想する。そこに福田氏は、人間を訳もわからぬまま戦争へ駆りたてる「何か」の影を見るのである。「何か」の正体は見当もつかない、人間には把握できぬものであるが、保田與重郎の『蒙疆』や彼が言及した「石塚曹長」の「御伽話めいた」武勇伝、『ノロ高地』などには確かに「何か」の片鱗が垣間見える。これらに表れているのは、戦争の凄惨を味わいながらも陶酔を見いだし…
続きを読む2024年1月31日 11:59文責 火野佑亮
レーニンの思想とされるものに死後、「マルクス・レーニン主義」の名を与えたのはスターリンだった。彼らについて抱く我々の印象は、一九五六年のいわゆる「スターリン批判」や「ハンガリー暴動」の影響をまぬがれ得ないだろう。だが事態はそれにとどまらない。五六年以降、レーニンやスターリンら個々人の思想のみならず、マルクス主義そのものの根底にある、革命の歴史的必然という「物語」が否定されてゆく。それはまた、「大衆」をあるべき方向へと指導する、真の「前衛」の不可能をも意味した。 マルクスは生前、プルードンやバクーニンといった革命家との論争を繰り広げた末、ヘゲモニーを握る。バクーニンによるマルクスの「プロレタリア独裁」批判の要諦は、知的エリートが政治権力と棲み分けをした上で、「見えざる参謀」としてそれを管理する発想だった。千坂恭…
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